哲学~近代哲学④~大陸合理論①デカルト02
前回、デカルトの哲学における時代背景などの前提条件を整理しました。
今日は、よりデカルトらしさに踏み込みます…
彼がどのように確実な知を定義し、世界を説明しようとしたのかを整理します。
【方法的懐疑】
デカルトは大陸合理論の祖であり、確実な知を演繹法によって求めます。
そして演繹法で大事なことは、何を普遍的原則とするかです。
最初の原則が間違うと、全てを間違った方向に導いてしまうことになってしまいます。
そこで彼が展開したものが、方法的懐疑です。
これは普遍的原則を導く手段として、あえて全てを疑うというもの
「全てを疑い、それでも疑いきれないもの」こそが普遍的であるとします。
そして、デカルトは様々なものを、これでもかというくらい疑います。
例えば全てのものを「夢かもしれない」と疑ってみる…
私の目の前にある世界も、身体も、頭の中も…
あくまで夢の中での設定かもしれない…
夢から覚めたら、全く違う世界が広がっているかもしれません。
人間ではなく、蝶かもしれないし
…そもそも得体の知れない「これ何?」という姿かもしれません。
頭の中の「1+1=2」でさえ…
夢から覚めたら
「1+1=3」の世界かもしれません。
そんな訳ないだろというツッコミも御最もですが、
あくまで手段として疑っているわけで、さらには万が一を否定できません。
そして、全てを疑った先にある彼の結論が
「われ思うゆえに、われあり(コギト・エルゴ・スム)」です。
どれだけ疑っても「疑う存在としての私」だけは確かに存在する
哲学史において最も有名な言葉の一つであり、
デカルトが演繹法における普遍的・第一の原則に位置付けたものです。
まさに哲学なフレーズです。
【物心二元論】
全てを疑い「疑う存在としての私」だけを確かな存在としたデカルトですが、
この場合の「私」は精神とイコールです。
私の身体も手に持つスマートフォンも、夢から覚めたら違うものかもしれません。
このように、デカルトは精神(心)をより優位なものとして身体や物質と区別をしました。
これを物心二元論と呼びます。
そして、このデカルトが確実とした精神は、より完全である神に由来する他なく
「完全な神が人に与えた精神が吟味した物質は存在するはず」と展開します。
急に神が出てきた…!という感じですが、
この前提がないと、演繹はあくまで推論なので
「私」以外はずっと疑わしきままとなってしまいます。
そして、ここで大切なことはデカルトが「確実な知とは?」という問いに対して
その答えは、私が疑い、考え抜いた先にしかないということを主張したということです。
目に見える世界やアリストテレス哲学や神…
様々なものがその真理を雄弁に語りますが、何よりも自分が考え続けることが第一の原則である。ということです。
デカルトはそれまでの常識を疑わざるを得ない社会の動乱の中、
答えを外に求めるのではなく、自分で考え続ける重要性を伝えたかったのかもしれません。もしくは、神が揺らぐ時代における、彼なりの神の存在証明とも言われています。
その真意は、それこそ我々も自分で考えるべき
もしくは自分なりの答えへとしていかなければいけないところですね。
ひとまず今日はここまで
デカルトはボリュームがある…。がんばります。